張禧嬪(チャンヒビン)は本当に悪女だった?美人王妃の転落ストーリー!

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・張禧嬪って本当に悪女なの?
・張禧嬪がした悪行を知りたい!
・張禧嬪が登場するドラマは?

なつき

こんな疑問に応えていくよ!

張禧嬪は、張緑水(チャン・ノクス)、鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)と並ぶ「朝鮮三大悪女」の一人であるとともに、その美しさから王を翻弄し女官から王妃にまで上り詰めています。

王からの寵愛、王妃の座、王の後継者になった息子。波乱の人生を歩んだ彼女の生涯とは一体どのようなものだったのでしょうか。

そこで今回は「張禧嬪(チャンヒビン)は本当に悪女だった?美人王妃の転落ストーリー!」と題し、ご紹介していきます。

目次

張禧嬪(チャンヒビン)のプロフィール

姓名張禧嬪(チャンヒビン)
生没年1659年11月3日〜1701年11月9日
配偶者第19代王・粛宗
第20代王・景宗

略年表

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1659年誕生。本名は張玉貞(チャン・オクチョン)。
1680年粛宗に寵愛される。
1686年朝鮮王朝第19代王・粛宗の側室になる。
1688年王子・昀(のちの第20代王・景宗)を出産。
1689年仁顕王后が宮廷を追われ禧嬪になる。
1690年王妃の座に上り詰める。
1694年仁顕王后が復位し、王妃の座を追われる。
1701年死罪を命じられる。享年42。
引用:韓国時代劇で学ぶ人物大辞典

張禧嬪を分かりやすく解説

なつき

張禧嬪は女官として宮廷入りしていたんだけど、女好きだった第19代王・粛宗がその美貌に一目惚れして一夜をともにする仲になっていったの。そんな中、粛宗の母親である明聖(ミョンソン)王后は、張禧嬪を見て「何かこの女は災いを起こす」と胸騒ぎがしたそうよ。

はると

母の勘というか、女の勘ってすごいね。

なつき

母親によって張禧嬪は一旦は宮廷から追放されるんだけど、母親が亡くなると粛宗の正室だった仁顕(イニョン)王后が「殿下が気に入っていた女官をそばに仕えさせてあげたい」と言って宮廷に呼び戻したの。戻ってきた張禧嬪は側室として王からの寵愛を受けてわがままに振る舞ったそうよ。

はると

仁顕王后は呼び戻したことをさぞかし後悔しただろうね。

なつき

流石の仁顕王后も見るにみかねて、張禧嬪を呼び出してお仕置きをしたみたいだけど、全く反省する様子はなかったの。それどころか、張禧嬪は王との間に長男を出産すると”元子(ウォンジャ)”に指名するよう王に迫ったそうよ。

豆知識①元子(ウォンジャ)とは
本来、王の後継ぎは世子(セジャ)と呼ばれるんだけど、選ばれるのは5歳前後でそれまでは後継者として正式には認められていないことになるの。ただし、有力な世子候補が生まれた時には元子に指名することができて、よほどのことがない限り5歳前後で世子に昇格したんだよ。つまり、生まれてすぐに元子に指名されることで、将来の王位が約束されてた、ってことだね。

なつき

仁顕王后は当時まだ21歳で正室から王子が生まれる可能性も十分あって周囲は反対したみたいだけど、張禧嬪の狙い通り息子は元子になったわ。そして、張禧嬪を王妃に昇格させて、仁顕王后は「嫉妬深いから」という理由で廃妃にされてしまったの。

はると

もう完全に王様は張禧嬪の言いなりになってるね。嫉妬深いから、って自分の息子が確実に王位に就くためにライバルを減らしたかっただけのように感じるけど・・・。

なつき

でも、ここから張禧嬪の転落人生が始まったのよ。女好きだった王の心が次第に「トンイ」の主人公のモデルにもなった淑嬪崔氏(スクピン チェシ)に移っていったの。元々は宮廷で水汲みなんかの下働きをしていたそうよ。

はると

そう考えると、王様は宮廷で働いている人たちのことを隅々までよく見ているんだね(笑)色眼鏡を使ってではあるけれど。

なつき

淑嬪崔氏は仁顕王后をとても慕っていて、王様に宮廷に呼び戻すように懇願したの。そのことがきっかけとなって、仁顕王后は再び王妃として迎えられて、張禧嬪は側室に格下げされたわ。側室となって、王様からの寵愛も受けなくなった張禧嬪が唯一待ちわびていたことといえば、無事に世子になった息子が王になって、大妃(王の母)として力を取り戻すことだったの。

はると

淑嬪崔氏の登場によって少しづつ歯車が狂い始めたんだね。

なつき

仁顕王后が王妃に復帰して半年後に、淑嬪崔氏が王様の次男となる王子を出産したの。こうなると、張禧嬪の息子も世子の座が安泰ではなくなって後継者をめぐる女の戦いは激しくなっていたわ。それから間も無くして仁顕王后は王様の子供を身籠ることなく病の果てに亡くなってしまったそうよ。

はると

仁顕王后が亡くなるなんて・・・。まだ、王妃に復帰したばかりだったのに。やるせないね。

なつき

実は張禧嬪がライバルを減らすために仁顕王后に呪詛をかけていたそうなの。仁顕王后が亡くなった翌月に淑嬪崔氏からの告発によって発覚したのよ。

豆知識②呪詛とは
朝鮮王朝時代には、本当に人を呪い殺せると信じられていたの。この世から抹消したい人物を巫女に依頼して、怪しげな儀式を行ったり、相手の家の周囲に呪いの人形や小動物の死骸を埋めたりしたそうよ。

なつき

次々に証拠も出てきて言い逃れできなくなった張禧嬪は王様自らの判断によって自決を言い渡されたのよ。時期王の母親なだけあって多くの波紋を呼んだみたいだけどね。そして、“死ぬ前にもう一度息子に会いたい”と願って会うと、息子の局部をわしづかみにして強く引っ張ったそうよ。粛宗に「孫を与えてやるまい」と復讐心を燃やしてやったことなのかは分からないけど、息子である景宗には生涯子供ができずに後継者を残せなかったの。

はると

男性としての機能がなくなったってこと?!それもお母さんの手で!?

なつき

かもしれないわね…。さて!ここまで、張禧嬪の生涯、悪女っぷりを解説してきたんだけど、実は彼女“本当に悪女だったのか”って言う見方もあるの。その理由を紹介するわね。一旦、“張禧嬪=悪女”という先入観を捨てて考えてみてね!

・仁顕王后が呪詛されたという証拠はあったが、張禧嬪がやったという確証はなかった。
・仁顕王后は王妃に復帰して以来、病気がちで呪詛を受けたから、というよりも慢性病が死因になったと考える方が自然。そもそも、子供もいない仁顕王后を排除する理由があったのか。
・むしろ標的にしたいのは王の息子を産んだ淑嬪崔氏ではないか。淑嬪崔氏の告発で呪詛事件が明らかになり張禧嬪は死罪となった。ここで一番得をするのは誰か?淑嬪崔氏が張禧嬪を陥れた可能性はないか。

なつき

確かに張禧嬪は、小さな悪をたくさん重ねてきたかもしれないわ。でも、直接誰かを消しかけたり、露骨な陰謀を仕掛けたりしたわけではないの。そう思うと巨悪はもっと別にあって、“張禧嬪=悪女”っていう私たちの認識自体がもしかしたら間違っているのかもしれないわよね。

はると

確かにそう言われるとね。考えれば考えるほど張禧嬪ってどんな女性だったんだろう、って思うね。いろんな解釈があって本当に悪女って深いんだね!

張禧嬪(チャンヒビン)が登場する主な作品

なつき

美貌の悪女と伝わっているだけに、どの作品でも美女が演じているの!特に、張氏の本名をタイトルにした『チャン・オクチョン』では、オクチョンたちの恋愛模様にフォーカスし、粛宗への激しすぎる愛ゆえに悲しい最期を迎える純粋な女性という解釈でキム・テヒが好演したわ!

ドラマ名役名
張禧嬪<チャン・ヒビン>(02〜03)キム・ヘス
トンイ(10)イ・ソヨン
イニョン王妃の男(12)チェ・ウリ
チャン・オクチョン(13)キム・テヒ
テバク〜運命の瞬間〜(16)オ・ヨナ
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