・チョン・ドジョンはなぜ名臣と呼ばれるの?
・どんな生涯を送ったの?最期は?
・イ・ソンゲとの関係は?

こんな疑問に答えていくよ!
朝鮮王朝初代王イ・ソンゲを王座に就けた名臣として有名なチョン・ドジョン。
しかし、彼は理想としていた民本政治を叶えることなく道半ばで生涯を終えることに。果たして、彼が叶えたかった未来とは…。
そこで今回は、「チョンドジョン(サムボン)|李成桂を朝鮮王朝初代王に就かせた名臣」と題しチョン・ドジョンの生涯についてご紹介していきます。
チョンドジョン(サムボン)のプロフィール
名前/号 | 鄭道伝(チョン・ドジョン)/三峰(サムボン) |
生没年 | 1342〜1398年 |
役職 | 文臣 |
略年表
1342年 | 刑部尚書を務めた鄭云敬(チョン・ウンギョン)の元に生まれる。 |
1360年 | 科挙に合格する。 |
1375年 | 李仁任(イ・イニム)ら親元派と対立したために配流になる。 |
1383年 | 咸鏡道で李成桂(イ・ソンゲ)と出会う。 |
1388年 | 威化島回軍に成功した李成桂の朝廷掌握を補佐する。 |
1392年 | 李成桂を王に推戴し、翌年朝鮮王朝が成立する。 |
1398年 | 第一次王子の乱で命を落とす。享年61歳。 |



威化島(ウィファド)回軍について詳しく知りたい人は、崔瑩(チェヨン)の記事を読んでね!


分かりやすく解説



鄭道伝は幼い頃から聡明で学問や読書を好み、成均館(ソンギュンガン)の大司成(テサソン)イ・セクと出会ったことで、性理学(儒学の一派)への理解を深めたそうよ。



鄭夢周(チョン・モンジュ)や李崇仁(イ・スンイン)、権近(クォングン)ら、高麗末期の性理学者たちの大半がイ・セクの門下生なんだって!



名だたる大物たちだね!



反元政策をとっていた高麗31代王・恭愍王(コンミンワン)が亡くなると、親元派が勢いづいて、鄭道伝は同門ともども配流になったわ。以降、李成桂と出会うまでの10年あまり、鄭道伝は野に下って暮らし、その間に新たな王朝を夢見るようになったの。



それが後の朝鮮なんだね。



ええ。そして彼は自分の夢を託す人物として李成桂を見込んだわ。こうして鄭道伝は李成桂のもとで参謀役を務め始めるんだけど、今度は信頼し合っていたはずの鄭夢周と対立してしまうの。



同じ学舎を出た仲なのに…どうして?



打倒高麗を目指す鄭道伝と、高麗としての改革を目指す鄭夢周では相容れなかったのよ。でも時代はすでに高麗滅亡に向かって動き始めていて、鄭夢周は血気にはやる芳遠(バンウォン)の刃によって倒れたの。



そうだったんだ。



1392年、ついに李成桂を王に推薦した鄭道伝は開国功臣として王の絶大なる信頼を得て、国の整備に乗り出したわ。でも、宰相中心の体制づくりを推進する鄭道伝に反発した芳遠によって、志半ばで命を落としたの。



結局は、仲間割れした鄭夢周と同じ最期を辿ったってわけだね。
チョンドジョン(サムボン)が登場する主な作品
作品名 | 役者名 |
開国(83) | キム・フンギ |
龍の涙(96) | キム・フンギ |
大風水(12〜13) | ペク・スンヒョン |
鄭道傳<チョン・ドジョン>(14) | チョ・ジェヒョン |
六龍が飛ぶ(15〜16) | キム・ミョンミン |



『鄭道傳』では民本政治の理想を掲げながらも、志半ばで倒れる無念をバンウォンにぶつける痛々しいチョン・ドジョンの姿が描かれているわ。



諸国を放浪しながら、民衆の暮らしに寄り添おうとする高潔の士って感じだよね。



まさにその通りね。一方の『六龍が飛ぶ』では、強烈なカリスマ性で民衆を扇動する姿が印象的ね。



イ・ソンゲの朝鮮を建国する前後が描かれている『私の国』では、名前はよく出てくるけど、姿やその人柄については登場しなかったよね。



同じ時期でも、ドラマによってスポットライトの当て方が異なるからね〜。チョン・ドジョンについて詳しく知りたいなら、『鄭道傳』や『六龍が飛ぶ』あたりがオススメよ!