・丁若鏞ってどんな人?
・どんな業績を残したの?
・丁若鏞が登場する作品は?
こんな疑問に答えていくよ!
各ドラマで正祖のブレインとして登場する丁若鏞。
一体、彼は生涯でどれだけ多くの業績を残し国の発展に寄与したのでしょうか。
そこで今回は、「丁若鏞(チョンヤギョン)|正祖から全幅の信頼を受けた実学の巨匠」と題し、丁若鏞の一生について一緒に見ていきましょう。
丁若鏞(チョンヤギョン)のプロフィール
姓名 | 丁若鏞(チョンヤギョン)、雅号・茶山(タサン) |
生没年 | 1762年8月5日〜1836年4月7日 |
略年表
1762年 | 誕生。本貫は全羅道の羅州。 |
1783年 | 科挙の臨時試験に合格。 |
1793年 | 華城の設計手引書を作成(完工は1796年)、暗行御史として地方を巡察。 |
1801年 | 辛酉迫害(シニュパケ)の巻き添えで配流となる。 |
1818年 | 配流から解放され研究と執筆に励む。 |
1836年 | 75歳で死去。 |
分かりやすく解説
丁若鏞は京畿道・マヒョンで南人(ナミン)の学者の家に生まれたわ。幼い頃から優秀で、20歳の頃に科挙の臨時試験に合格して成均館(ソンギュングァン)に入学したそうよ。
成均館ってよくドラマで見るところだね!
ええ。朝鮮時代の最高の教育機関よ。丁若鏞はそこで頭角を現して第22代王・正祖の目に留まり重用されるようになるの。高級官僚登用試験(大科)に5回目で次席合格すると学術研究機関・奎章閣(キュジャンガク)の文臣になって正祖を補佐するようになったんだって。
5回目で合格か〜。優秀なだけでなく、かなりの努力家だったんだろうね。正祖が信頼を置くのも分かるね!
世界遺産にも登録されている水原華城(スウォンファソン)の建設も任されたのよ!伝統工法に加え、西洋の近代工法も導入した設計図を作成したんだって。
華城建設後は、王名を受けて暗行御史(アメンオサ)となり地方官吏の不正摘発に努めたわ。でも、正祖が急死すると天主教(カトリック)信者の大量迫害事件「辛酉迫害(シニュパケ)」が起き、兄や親族が天主教徒だった丁若鏞も巻き添いとなって島流しの刑にされたの。
このカトリック教の弾圧知ってる!確か、貞純(チョンスン)王后が関与してたよね!?
その通りよ。この弾圧で数万人の犠牲者が出たと言われているわ。丁若鏞はそこから約18年もの間、配流生活を送ったそうよ。その間に民衆の生活を観察し、官僚が守るべき心得を記録した「牧民心書(モンミンシムソ)」や国政改革について示した「経世遺表(キョンセユピョ)」などを執筆したそうよ。
刑を解かれた後も、官職復帰の誘いを断って故郷で研究と執筆に没頭したんだって。75歳でこの世を去るまで500点あまりの書物を残しているわ。
丁若鏞(チョンヤギョン)が登場する主な作品
ドラマ名 | 役者名 |
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牧民心書 〜実学者チョン・ヤギョンの生涯〜(00) | キム・ハクスン |
イ・サン(07〜08) | ソン・チャンウィ |
正祖暗殺ミステリー8日(07) | パク・ジョンチョル |
チョン・ヤギョン 李氏朝鮮王朝の事件簿(09〜10) | パク・ジェジョン |
トキメキ⭐︎成均館スキャンダル(10) | アン・ネサン |
雲が描いた月明り(16) | アン・ネサン |
演技派俳優アン・ネサンは、「トキメキ⭐︎成均館スキャンダル」と「雲が描いた月明り」の両作品で丁若鏞に扮していて、若者たちに指南する姿はまさにハマリ役よ!!