・名前は聞いたことあるけど何をした人なの?
・どんな生涯を送ったの?
・ハンミョンフェが登場する作品を知りたい!
こんな疑問に答えていくよ!
世祖による権力奪取の計画に加担し名を上げたハンミョンフェ。
その後次々と自分の娘を王妃にし、裏で国を操った天才策士の生涯とは一体どのようなものだったのでしょうか。
そこで今回は、「ハンミョンフェ(韓明澮)クーデターを成功させ世祖即位に貢献した天才策士」と題しご紹介していきます。
ハンミョンフェ(韓明澮)のプロフィール
名前 | 韓明澮(ハン・ミョンフェ) |
生没年 | 1415〜1487年 |
職業 | 文臣 |
娘 | 章順王后(8代王・睿宗妃)、恭恵王后(9代王・成宗妃) |
略年表
1415年 | 韓起の息子として誕生する。 |
1452年 | 推薦で敬徳宮直(キョンドクグンジク:敬徳宮の門番)になる。 |
1453年 | 癸酉靖難(ケユジョンナン)を成功させ、靖難一等功臣となる。 |
1456年 | 端宗復位計画を未然に防ぎ、都承旨(トスンジ)に昇進する。 |
1460年 | 三女が海陽君(ヘヤンデグン:後の8代王・睿宗)と結婚する。 |
1466年 | 領議政(ヨンイジョン)に就任する。 |
1467年 | 四女が乽山君(チャルサングン:後の9代王・成宗)と結婚する。 |
1487年 | 73歳で亡くなる。 |
分かりやすく解説
韓明澮は朝鮮建国当時、明に派遣されて「朝鮮」の国号を定めてもらい帰国した韓尚質(ハン・サンジル)の孫よ。
おじいちゃん、すごい人物だね!
ええ。でも、幼い頃に親に先立たれ不遇な少年時代を過ごしたそうよ。科挙にもことごとく失敗して、38歳になってようやく推薦で敬徳宮直の職に就いたの。
そうだったんだ…。
策謀に富み、時勢を読む才能に長けていた韓明澮は、首陽大君のような強力な王が必要と考え、友人のクォンラムを通じて首陽大君に接近したの。1453年に初めて対面したとされるんだけど、その場で2人は意気投合したそうよ。同年、癸酉靖難を成功させて、一等功臣に封じられたわ。
計画的に首陽大君に近づいて、見事成功したってわけだね!
ええ。以降、着実に出世を重ね、1466年には現在の総理大臣にあたる領議政に就任したわ。同年に起こった李施愛(イシエ)の乱で謀反のぬれぎぬを着せられて投獄されるんだけど、やがて疑いが晴れ釈放されたわ。二人の娘を睿宗、成宗の王妃にし、王の義父として世祖の死後も権勢を誇ったそうよ。
次から次へと娘を王妃に…。彼にとっては強力な後ろ盾だね。
でも、1474年に成宗に嫁いだ四女の恭恵王后(コンヘワンフ)が亡くなると陰りが見え始め、1481年には明の使臣の接待をめぐって成宗の怒りを買い全職を解かれたの。
あらら…。
こうして韓明澮は、1487年に73歳で亡くなったわ。1504年には、甲子士禍(カプチャサファ)で墓を暴かれ首をはねられたものの、燕山君の失脚後、身分が回復されたそうよ。
癸酉靖難(ケユジョンナン)や甲子士禍(カプチャサファ)については、それぞれ世祖、燕山君の記事で解説しているから気になる人はのぞいてみてね!
ハンミョンフェ(韓明澮)の豆知識
韓国随一の高級エリア狎鴎亭(アックジョン)は韓明澮に由来していた
高級感あふれるソウル屈指の繁華街、狎鴎亭。この地名は韓明澮が晩年、余生を過ごすために建てたあずま家「狎鴎亭」に由来しているんだって。漢江の南岸の小高い丘にあって「富や名誉を捨てて、鴎(カモメ)を友にして過ごす」と言う意味が込められているそうよ。でも、実際には、煌びやかな生活をしていて、使臣が来るたびに豪華な料理やお酒でもてなしていたんだって。
ハンミョンフェ(韓明澮)の登場する主な作品一覧
作品名 | 役者名 |
韓明澮 ハンミョンフェ〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜(94) | イ・ドクファ |
根の深い木-世宗大王の誓い-(11) | チョ・ヒボン |
インス大妃(11〜12) | ソン・ビョンホ |
観相師-かんそうし-(13) | キム・ウィソン |
『韓明澮 ハンミョンフェ〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜』では、没落両班の家に生まれた不遇な青年時代から、首陽大君の側近となってクーデターを起こし、朝廷を牛耳るようになった姿が克明に描かれているわ。
そうなんだ。史実に沿った内容になっているんだね。
ちなみに、この作品でハンミョンフェを演じたイ・ドクファは大きな耳を付けているんだけど、実際のハンミョンフェは長身で端正な顔立ちだったそうよ。
きっと、朝廷を牛耳る男に見えるように“いかにも”な感じにアレンジしたんだろうね(笑)
ええ。当時42歳でスター俳優だったイ・ドクファを醜男に見えるようにスタッフが考案した秘密兵器だったみたい(笑)