・馬医に出ていた王様が気になった
・喪服論争ってなに?
・顕宗の治世はどんなだったの?
こんな声に応えていくよ!
北伐計画を中断して国家を安定させるも、喪服論争をはじめとする党争に苦しめられた顕宗。
ドラマ『馬医』では、気弱な王様として描かれている顕宗は、一体どのような王だったのでしょうか。
そこで今回は、「【朝鮮王朝18代】顕宗(イヨン)|喪服論争で疲弊した王」と題しご紹介していきます。
顕宗(ヒョンジョン)/李棩(イ・ヨン)のプロフィール
姓名 | 李棩(イ・ヨン) |
生没年 | 1641年3月15日〜1674年9月17日 |
親族 | 父:第17代王・孝宗 母: 仁宣王后(張氏) 妻:明聖王后(金氏) 息子:第19代王・粛宗(スクチョン) 娘:明善公主、明恵公主、明安公主 |
史実では
17代王・孝宗の長男。父が人質に取られた清で誕生し、19歳で即位すると、国家財政を逼迫させた清への出兵計画を中断させ、内政も安定していたため、軍備増強や民間経済の活性化に尽力。
だが先王の服喪期間に関する礼訟(イェソン)論争で朝廷は混乱。仁宗の次男である孝宗の服喪は王家の礼法では1年だが、南人は兄・昭顕(ソヒョン)世子が早世したため長男として3年を主張。
この服喪論争が極端な対立を生み、政争へと拡大し、西人が勝利。しかし、15年後の孝宗妃死去で論争が再燃、今度は南人が勝利。韓国時代劇で学ぶ人物大事典
権力争いが続き国力が衰退していく中、顕宗は34歳で死去した。
分かりやすく紹介
イ・ヨンは清で人質生活を送っていた父・第17代王・孝宗と母・ 仁宣王后との間に生まれた子で、朝鮮王朝27代のうちでただ唯一外国で生まれた王なの。
王の期間、国はどんな感じだったの?
隣に強大な国家、清がいたおかげで異民族からの侵入はなかったんだけど、国内での派閥問題が起こったのよ。
それはまた何が原因で?
父である第17代王・孝宗が亡くなった時と、母・仁宣王后が亡くなった時にそれぞれどのくらいの期間喪服を着るかで争ったのよ。
喪服の期間で?!今となっては考えられないね。
当時は、長男が亡くなったか次男が亡くなったかでそれぞれ喪服を着る期間が決まっていたんだけど、孝宗は次男だけど王になったでしょ?それで長男と同じ期間着用すべきだ!っていう人たちと、いや、次男なんだから次男で決められた期間でいい!っていう人たちとで論争が勃発したのよ。
そうだったんだ。
一見、どうでもいいような気もするけど、どっちの案が採用されるかでその後の権力をどちらが握るかにかかっていて対立は激化したそうよ。南人(ナミン)と西人(ソイン)2つの勢力争いが続いて、国力は次第に衰退して行ったの。
そういえば、イ・ヨンは朝鮮王朝の歴代王の中で唯一側室を持たなかった王としても有名なのよ。
王妃一筋だったのかな〜?
それがそんなに幸せな話でもないらしいの。感情的ですぐカッとなる明聖王后が怖くて側室を持てなかったそうよ。
今でいう、鬼嫁だったんだね…。
顕宗(ヒョンジョン)/李棩(イ・ヨン)の登場する主な作品
作品名(ドラマ) | 役者名 |
『禧嬪張(チャン・ヒビン)』(02) | パク・ヨンテ |
『馬医』(12) | ハン・サンジン |
『チャン・オクチョン』(13) | チョン・インテク |
ドラマ『馬医』について別記事で詳しくまとめているから、気になる人は見てみてね!