・死後、尊称が贈られなかったのは稀代の暴君・燕山君と光海君だけだったって本当?
・光海君は一体何をしでかしたの?
・後世で評価が一変したのはなぜ?
こんな疑問に答えていくよ!
戦乱からの復興に努めるも、クーデターにより追放された光海君。
稀代の暴君・燕山君と並び、死後、尊称が贈られなかった光海君の知られざる歴史とは…。
そこで今回は、「【朝鮮王朝15代】光海君(イホン)|後世で評価が一変した悲しき暴君」と題し、近代、暴君としての見方が変わりつつある光海君について、その経緯を踏まえご紹介していきます。
光海君(クァンヘグン)/李琿(イ・ホン)のプロフィール
姓名 | 李琿(イ・ホン) |
生没年 | 1575年6月4日〜1641年8月7日 |
親族 | 父:第14代王・宣祖 母:恭嬪金氏 妻:廃妃柳氏(文城郡夫人)、他 息子:廃世子祇、他 |
略年表
1575年 | 朝鮮王朝第14代王・宣祖と側室・恭嬪金氏の次男として誕生。 |
1592年 | 壬辰倭乱が勃発、世子に擁立される。 |
1602年 | 継妃・仁穆王后金氏が永晶大君を出産。 |
1608年 | 34歳で第15代王に即位。 |
1625年 | 「仁祖反正」で失脚、廃位。 |
1641年 | 67歳で死去。 |
光海君を取り巻く人物
史実では
14代王・宣祖と側室・恭嬪金氏の次男。傍系の王としてのコンプレックスを抱えていた宣祖は嫡男がいない為、長年世子冊封を避けていた。
韓国時代劇で学ぶ人物大辞典
壬辰倭乱の勃発後、宣祖は非常事態で分朝体制となる流れで光海君を世子に決定し、都を守るように命じた。だが、明は光海君が傍系かつ次男であるとの理由で世子冊封をたびたび拒否。
戦争が終わり、宣祖の継妃・仁穆王后に嫡男・永晶大君が誕生すると、宣祖は態度を一変してで光海君を遠ざけ、光海君を支持する大北派と永晶大君を支持する小北派による闘争も始まった。
やがて病が悪化した宣祖はやむなく光海君に譲位。光海君は王位に就いたものの、長兄の臨海君(イメグン)や義弟の永晶大君の存在を脅威と考え、相次いで除去。
これで王位は盤石になるかに見えたが、阻害された西人たちが光海君による廃母殺弟を理由に、綾陽君(ヌンヤングン)を担いでクーデター(仁祖反正)を起こし、光海君は廃位。
在位期間より長い年月を配流地で過ごし、67歳で息を引き取った。
光海君の豆知識
朝鮮王朝の27人の王の中で、死後、尊称が贈られなかったのは稀代の暴君として知られる第10代王・燕山君と、第15代王・光海君だけよ。王になるために反対勢力を粛清して、幼い兄弟にまで手をかけたそうよ。
そりゃダメだよ。それじゃあ、彼も燕山君と同じで暴君だった、ってこと?
それが、近年になって光海君の功績を検証した結果、そこまでの暴君ではなかった、という見方が強くなっているそうよ。
それはなんでなの?
戦争で荒廃した国土を回復させるために、江戸幕府と和議を結んだり、国民の負担を軽減させるために税制の改革を行うなどの善政も行っていたからよ。それに燕山君と違って、自ら悪事に手を染めたのではなく、臣下たちに暴政を仕向けられたという説もあるの。
ふ〜ん。そうだったんだ。
まあ、何が真実なのか実際のところ分からないけどね。ドラマや映画で人気俳優が光海君を演じていることも彼の功績を見直すきっかけになってそうね。
光海君(クァンヘグン)/李琿(イ・ホン)の登場する主な作品
光海君が登場するドラマは多くて、過去には暴君として描かれることが多かったんだけど、最近は「政治力に長けた」「人間的な」「悲運の王」として描かれているわ。
ドラマ(放送年) | 役者名 |
ホジュン 宮廷医官への道(1999) | キム・スンス |
王の女(2003) | チソン |
不滅の李舜臣(2004) | イ・ジュン |
火の女神ジョンイ(2013) | イ・サンユン/子役:ノ・ヨンハク |
王の顔(2014) | ソ・イングク |
華政<ファジョン>(2015) | チャ・スンウォン |
軍師リュ・ソンリョン〜懲毖録<ジンビロク>〜(2015) | ノ・ヨンハク |
王になった男(2019) | ヨ・ジング |
ノクドゥ伝(2019) | チョン・ジュノ |
ポッサム 運命を盗む(2021) | キム・テウ |
映画(放送年) | |
王になった男(12) | イ・ビョンホン |
代立軍 ウォリアーズ・オブ・ドーン(2017) | ヨ・ジング |
「王の顔」ではソ・イングクが宣祖の嫉妬から身を守るため聡明さを隠す王、「王の女」ではチソンが一途な恋を貫く王、「火の女神ジョンイ」ではイ・サンユンが人間味溢れる姿で恋する若き光海君を体現しているわ!