【朝鮮王朝6代】端宗(イホンウィ)|11歳で王位に就いた悲劇の王

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・端宗が悲劇の王と言われる所以は何?
・どんな最期を迎えたの?

なつき

こんな疑問に答えていくよ!

父である第5代王・文宗の逝去により11歳という若さで王位に就くことになった端宗。

そんな端宗を待ち受けていた悲しき運命とは…。

そこで今回は「【朝鮮王朝6代】端宗(イホンウィ)|11歳で王位に就いた悲劇の王」と題しご紹介していきます。

目次

端宗(タンジョン)/李弘暐(イ・ホンウィ)のプロフィール

イ・ホンウィ
姓名李弘暐(イ・ホンウィ)
生没年1441年8月9日〜1457年11月7日
親族父:第5代王・文宗
母:仁孝順恵顕徳王后(安東権氏)
妻:懿徳端良斉敬定順王后、他
息子:なし

略年表

1441年文宗の長男として生まれるが、3日後に母の世子嬪権氏が死去。
1450年世宗が死去し、文宗が即位。10歳で世子に冊封。
1452年文宗が死去し、12歳で即位。
1455年首陽大君(スヤンテグン)が世祖に即位し、上王に退く。
1456年魯山君(ノサングン)に降格され、寧越(ヨンウォル)に流される。
1457年庶民に落とされ、自害させられる。
引用:韓国時代劇で学ぶ人物事典

端宗をわかりやすく解説

はると

11歳で王になったの?!

なつき

そう。父である文宗が早くに亡くなったからね。端宗の生みの母も彼を産んで3日後に亡くなってしまったし、祖母も他界していたから代理政治を行う人もいなかったの。だから彼は名ばかりの王で、実権は大臣たちが握っていたそうよ。

はると

それでどうなったの?

なつき

次第に王族たちが勢力を強めて、叔父の世祖(セジョ)が重臣たちを粛清したの。後ろ盾のなくなった端宗は世祖に王の座を明け渡すしかなかったのよ。

はると

そんな…。端宗は幼くして大切な人をたくさん失って王の座まで奪われたんだね。

なつき

そうよ。端宗を復位させようとした臣下や親戚もいたんだけど失敗に終わって、端宗は庶民にまで格下げされたそうよ。

はると

王様だった人が庶民に…。それもまだ子どもなのに。

なつき

端宗は最期、王命によって毒を飲むように迫られ16歳の若さでこの世を去ったわ。そして、亡骸は川に投げ込まれたと言われているわ…。

はると

まさに悲劇の王だったんだね。

端宗が無念の死を遂げた地〜江原道 寧越(ヨンウォル)〜
寧越で自害させられた後、端宗の亡骸は川に捨てられましたが寧越戸長がこっそり拾って山中に埋葬しました。それから約100年後の1541年、寧越郡守がお墓を発見し、整備。さらに、1698年には魯山君から端宗に追尊され、墓名も荘陵(チャンヌン)と名付けられました。1967年からは「端宗文化祝祭」として様々な行事が開催されています。

端宗(タンジョン)/李弘暐(イ・ホンウィ)のドラマ作品

作品名(ドラマ)役者名
『王と妃』(98〜00)チョン・テウ
『死六臣』(07)イ・ソン
『王と私』(07)イ・プンウン
『王女の男』(11)ノ・テヨプ
『インス大妃』(12)チェ・サンウ
作品名(映画)
『観相師(かんそうし)』(13)チェ・サンウ
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