・粛宗(スクチョン)ってどんな王様だったの?
・女性問題って具体的には誰が関係しているの?
・粛宗が登場する作品を教えて!

こんな疑問に答えていくよ!
3度の換局政治で力強い王権を維持するも、女性問題に悩まされた粛宗(スクチョン)。
そこには、ドラマ『トンイ』で知られる淑嬪崔氏と、”朝鮮三大悪女”の一人として名高い張禧嬪の存在がありました。
そこで今回は、「【朝鮮王朝19代】粛宗(イスン)|王権強化の裏で女性問題を抱えた王」と題しご紹介していきます。
粛宗(スクチョン)/李焞(イ・スン)のプロフィール


姓名 | 李焞(イ・スン) |
生没年 | 1661年9月8日〜1720年7月13日 |
親族 | 父:第18代王・顕宗 母:明聖王后(金氏) 妻:仁敬王后(光山金氏)、仁顕王后(驪興閔氏)、他 息子:第20代王・景宗(キョンジョン)、第21代王・英祖(ヨンジョ)、延齢君、他 |
略年表
1661年 | 朝鮮王朝18代王・顕宗と明聖王后金氏の長男として誕生。 |
1674年 | 父王の死去に伴い、14歳で即位する。 |
1680年 | 庚申換局で南人派が弾圧される。 |
1689年 | 己巳換局で西人派を排除し、南人派を再重用。 |
1694年 | 申戌換局で南人を排除。張禧嬪が降格し、仁顕王后閔氏が復位。 |
1720年 | 60歳で死去。 |
粛宗を取り巻く人物


史実では
18代王・顕宗の長男で、母は明聖王后金氏。幼少期から聡明で14歳で即位し、すぐ新政を行った。
当時の朝鮮は、2度にわたる清の侵攻の後遺症から脱しつつあった。そこで、粛宗は大同法を全国規模に広げ、商業活性化のために貨幣の常平通宝を大量に鋳造させた。
韓国時代劇で学ぶ人物大辞典
清との国境紛争にけじめをつけ、日本にも通信使を送るなど外交面にも配慮していたという。だが、朝廷内は熾烈な朋党政治の真っ只中。粛宗はこれを利用して特定派閥に力が偏らないよう換局(政権交代)で王権を強化した。
また粛宗は愛情面でもこの手法と使ったとされている。南人が支持する張禧嬪を溺愛し王妃にしたが、彼女の専横が過ぎると西人が推す淑嬪崔氏(トンイ)に乗り換えた。更に、復位後に死去した仁顕王后を張禧嬪が呪ったとの噂が広まると死を命じた。
ドラマでは



粛宗の業績を見ると、本当に火の打ちどころのない王様だよね!



一見、業績だけで見るとすごい王様なんだけどね。女性問題においてはトラブルメーカーらしく、ドラマによって色々と印象が違うのよ。
例えば、ドラマ「張禧嬪」では張禧嬪と党派争いに振り回される情けない王、ドラマ「チャン・オクチョン」では純粋ゆえに愛に苦しむ悲劇の王として描かれているの。でもドラマ「テバクー運命の瞬間ー」の粛宗は、絶対的な権力者で周囲から恐れられる王で、一番実像に近いと言われてるわよ。



ひぇぇ、粛宗って実際のところあんなに怖いイメージなんだ。。。



ちなみに、ドラマ「トンイ」で描かれた後の側室・淑嬪崔氏とのラブロマンスも、「テバク」ではポクスンという人妻を粛宗が略奪する設定に置き換わってるわ!
粛宗(スクチョン)の豆知識



ちょっと小難しい話だけど粛宗を語る上では外せないから1つずつ話すわね。



なるべく簡単に頼むよー。



最初の庚申換局(キョンシンファングク)は1680年、人事に絡んで南人が分裂した機に西人派の外戚が王命で実行したの。
これは、当時、仁敬王后金氏に世継ぎが生まれないことで外戚が焦ったことから、王位継承権を持つ王族を排除し、政権奪回のために内紛している南人派を政界から追放した策略よ。



そして、9年後。張禧嬪が王子のユン(後の景宗)を出産。粛宗はユンを世子にしようとしたんだけど、西人派がこれに反対したために己巳換局で西人を排除して、南人を再重用したわ。



更に5年後、南人と張禧嬪の策略で継妃・仁顕王后閔氏が廃位されて、張禧嬪が王妃になり、南人と張氏は絶頂期を極めたのよ。



それはドラマ「トンイ」で見たよ!
粛宗が南人と張禧嬪に振り回されて凄く胸が痛かったなぁ。



私は粛宗が頼りなさすぎて嫌だったわ。笑
後ね、それから仁顕王后の復位運動を展開する西人と、南人の増長を危惧していた粛宗の思惑が一致して、申戌換局で南人が排除、張禧嬪も降格されて、仁顕王后が復位したのよ。
粛宗(スクチョン)/李焞(イ・スン)の主な登場作品
作品名(ドラマ) | 役者名 |
禧嬪張(2002) | チョン・グァンリョル |
チェオクの剣(2003) | ソヌ・ジェドク |
トンイ(2010) | チ・ジヌ |
イニョン王妃の男(2012) | ソ・ウジン |
チャン・オクチョン(2013) | ユ・アイン |
テバク〜運命の瞬間〜(2016) | チェ・ミンス |