・奇皇后ってどんな人?
・ドラマが有名だけど史実ではどうだったの?
・そもそも貢女(コンニョ)って何?
こんな疑問に答えていくよ!
ドラマ『奇皇后ーふたつの愛 涙の誓いー』では、貢女から皇后へ上り詰めるシンデレラストーリーとして描写されていた奇皇后。
そんな、彼女の実際の生涯は一体どのようなものだったのでしょうか。
そこで今回は、「奇皇后(きこうごう)|貢女から元の皇女に上り詰めた女性の波乱万丈な生涯」と題しご紹介していきます。
奇皇后(きこうごう)のプロフィール
名前 | 奇皇后(きこうごう、キファンフ)、別名・完者忽都皇后 奇氏(ワンジャホルトファンフ キシ) |
生没年 | 1315年〜没年不詳 |
配偶者 | 元15代皇帝トゴン・テルム |
息子 | アユルシリダラ |
略年表
1315年 | 高麗の下級官僚・奇子敖の末娘として生まれる。 |
1333年 | 元15代皇帝トゴン・テルムの即位に伴い、貢女として元に旅立つ。 |
1340年 | 皇太子アユルシリダラを出産する。 |
1356年 | 反元政策を進める高麗第31代王・恭愍王(コンミンワン)が奇氏一族を粛清する。 |
1363年 | 恭愍王の廃位を訴える。 |
1365年 | バヤン・クトゥク皇后の死に伴い、次皇后から正皇后に昇格する。 |
分かりやすく解説
元の干渉下、貢女に選ばれた奇氏が元へ旅立つと、女官として元の順帝トゴン・テルムの食事の世話を任され、寵愛を受けるようになったわ。でも、後宮ではダナシリ皇后による激しい嫌がらせが待っていたの。
女同士の嫌がらせってどこにでもあるよね…。
奇氏がひたすら耐え忍ぶと、ほどなくして皇后の兄が謀反を起こし、皇后を含む一族が処刑されたわ。この一件で邪魔者はいなくなったんだけど、奇氏の正皇后冊立にはまだ抵抗があって、順帝はバヤン・クトゥクを正皇后として迎え、奇氏は次皇后となったの。
ふ〜ん。
こうして奇氏が元で勢力を強めると、高麗の奇氏一族も権勢を振るい始めたわ。しかし1356年、反元派だった恭愍王によって奇氏一族は殺されてしまうの。これに反発した奇氏は順帝に恭愍王の廃位を訴えたそうよ。やがて奇氏はバヤン・クトゥク皇后の死によって、正皇后の座を得たわ。
ついに貢女から元の皇女にまで上り詰めたんだね!
ええ。この頃になると、奇皇后は息子のアユルシリダラ皇太子を皇位に就けようと企んでいたんだけど、明の台頭によって元は内モンゴル応昌(おうしょう)に追いやられ、順帝はこの地で没してしまうの。奇皇后がいつどこで亡くなったかは定かではないそうよ。
貢女(コンニョ)たちの生涯
そもそも貢女とは何かについて紹介していくわね。
24代王・元宗(ウォンジョン)の時代には140人もの貢女が元に送られたそうよ。
貢ぎ物として自分の娘を差し出すことになるなんて居た堪れないね。
ええ。だから娘のいる家庭では幼いうちに結婚させたり、顔にわざと傷をつけたりして抵抗したそうよ。
でもなんで、そもそも元にたくさんの女性を送っていたの?
元は同族婚を嫌い、他部族から妻をめとる習慣があったの。だから、常に女性が不足していたってわけ。領土が広大で人口が多かったことも、これに拍車をかけたと考えられているわ。
貢女たちの多くは元で高官の嫁にされたんだけど、中には花街で生涯を終えたり、奇皇后のように皇帝からの寵愛を受ける者もいたそうよ。
そうだったんだね。でも皇后にまで上り詰めた奇皇后はやっぱり特殊なケースだね。
奇皇后(きこうごう)の登場する主な作品
ドラマ名 | 役者名 |
辛旽 シンドン ~高麗中興の功臣~(03) | キム・ヘリ |
奇皇后-ふたつの愛 涙の誓い-(13) | ハ・ジウォン |
史実では、元の後ろ盾を得て権勢を振るった悪女として有名だけど、ドラマでは貢女から皇后に上り詰めるシンデレラストーリーとして取り上げられているわ。
僕も『奇皇后』見たよ!男装したり嫌がらせに対しても機転を利かせて対処していたよね!“悪女”っていうイメージはドラマを見る限りではなかったな〜。
確かにそうかもしれないわね。高麗28代王・忠恵王がモデルだと言われているワン・ユとのラブストーリーなんかもあってドラマチックに描かれているものね。
でも、『辛旽 シンドン ~高麗中興の功臣~』では、史実通りの悪女として描かれているわ。比べて見るのも面白いかもね!
そうだね!