この記事では、高麗王朝歴代34人の王たちを初代から順番に解説しています。
・朝鮮時代の王様についてはなんとなく聞き覚えがあるけど、高麗時代の王様についてはあまり知らない
・私は、朝鮮時代のドラマよりも高麗時代のドラマが好き!
・時代劇ドラマに出てきた話や王様は史実では実際のところどうだったの?!
韓国の時代劇といえば朝鮮時代!というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか?
実際にドラマも朝鮮時代を描いたものが多いですが、高麗時代のドラマには『奇皇后』や『麗<レイ>』『王は愛する』『六龍が飛ぶ』など今人気の俳優や女優が出演している話題作も実は多くあるんです!
「朝鮮時代のドラマは見尽くした!」「あの女優さん・俳優さんをもっと見たい!」「時代劇初心者です!」という人も必見!魅力たっぷりの高麗王朝について王様から一緒に紐解いていきましょう!

それでは早速解説していくわね!
【高麗王朝】歴代34人の王たちを総まとめ!一目でわかる略系図と一覧表



高麗王朝の創始者・太祖(王建)から約400年続く激動の時代を生きた34人の王たち。まずは、そんな王たちの系図を見ていきましょう。





以下、歴代34人の王たちの在位期間や略歴、登場する主な作品について一覧表で紹介していくわね!名前を押すと詳細に飛ぶわ!
名前 | 生没年 | 在位期間 | 略歴 | 主な登場作品 | |
1 | 太祖(テジョ) | 877〜943年 | 918〜943年 | 朝鮮半島を統一し、高麗王朝繁栄の礎を築いた | 『麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』『輝くか、狂うか』『太祖王建』 |
2 | 恵宗(へジョン) | 912〜945年 | 943〜945年 | 王権を脅かす勢力に実権を握られた | 『麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』『光宗大王〜帝国の朝〜』『太祖王建』 |
3 | 定宗(チョンジョン) | 923〜949年 | 945〜949年 | 強力な後ろ盾を得て王座に就いた | 『麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』『輝くか、狂うか』 |
4 | 光宗(クァンジョン) | 925〜975年 | 949〜975年 | 改革を推し進めた不屈の王 | 『麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』『輝くか、狂うか』『千秋太后』『光宗大王〜帝国の朝〜』 |
5 | 景宗(キョンジョン) | 955〜981年 | 975〜981年 | 生涯父との葛藤を抱え続けた不遇な王 | 『千秋太后』 |
6 | 成宗(ソンジョン) | 961〜997年 | 981〜997年 | 儒教思想による国家形成に努めた | 『千秋太后』 |
7 | 穆宗(モクチョン) | 980〜1009年 | 997〜1009年 | 実の母と臣下から裏切られた悲劇の王 | 『千秋太后』 |
8 | 顕宗(ヒョンジョン) | 992〜1031年 | 1009〜1031年 | 契丹の侵攻を防ぎ友好を築いた | 『千秋太后』 |
9 | 徳宗(トクチョン) | 1016〜1034年 | 1031〜1034年 | 国内の政治的安定を図った | − |
10 | 靖宗(チョンジョン) | 1018〜1046年 | 1034〜1046年 | 奴婢随母法※1や長子相続法※2を定めた | − |
11 | 文宗(ムンジョン) | 1019〜1083年 | 1046〜1083年 | 高麗の全ての制度と整備を完成し、情勢の安定と文化の発展を成し遂げた | − |
12 | 順宗(スンジョン) | 1047〜1083年 | 1083年 | 即位後3ヶ月で亡くなり功績を残せなかった | − |
13 | 宣宗(ソンジョン) | 1049〜1094年 | 1083〜1094年 | 仏教と儒教の発展を土台として、外交でも主導権を握った | − |
14 | 献宗(ホンジョン) | 1084〜1097年 | 1094〜1095年 | 幼くして王位に就き、宣宗の弟であった粛宗に実権を握られた | − |
15 | 粛宗(スクチョン) | 1054〜1105年 | 1095〜1105年 | 強力な王権によって高麗を安定させた | − |
16 | 睿宗(イェジョン) | 1079〜1122年 | 1105〜1122年 | 高麗の北辺を脅かすようになっていたツングース系の女真を征伐し、千里長城※3東北地域に9城を設置した | − |
17 | 仁宗(インジョン) | 1109〜1146年 | 1122〜1146年 | 近親婚による外戚勢力に圧倒された | 『武人時代』 |
18 | 毅宗(ウィジョン) | 1127〜1173年 | 1146〜1170年 | 遊興にふけりクーデターを引き起こされた | 『武人時代』 |
19 | 明宗(ミョンジョン) | 1131〜1202年 | 1170〜1197年 | 武臣政権下で実権を牛耳られた | 『武人時代』 |
20 | 神宗(シンジョン) | 1144〜1204年 | 1197〜1204年 | 各地で起こる反乱で情勢不安が続いた | 『武人時代』 |
21 | 熙宗(ヒジョン) | 1181〜1237年 | 1204〜1211年 | 武臣政権に抗うが、力及ばず翻弄された | 『武人時代』 |
22 | 康宗(カンジョン) | 1152〜1213年 | 1212〜1213年 | − | 『武人時代』 |
23 | 高宗(コジョン) | 1192〜1259年 | 1213〜1259年 | モンゴルを退けるため仏教の経典を制作した | 『武人時代』『武神』 |
24 | 元宗(ウォンジョン) /忠敬王(チュンキョンワン) | 1219〜1274年 | 1259〜1274年 | 親モンゴル政策を取らざるを得なかった | 『武神』 |
25 | 忠烈王(チュンニョルワン) | 1236〜1308年 | 1274〜1298年 (復位1298〜1308年) | 元の干渉下で忠誠を誓うほかなかった | 『王は愛する』 |
26 | 忠宣王(チュンソンワン) | 1275〜1325年 | 1308〜1313年 | 元と高麗の血を継ぎ、最後まで高麗の暮らしに馴染めなかった | 『王は愛する』 |
27 | 忠粛王(チュンスクワン) | 1294〜1339年 | 1313〜1330年 (復位1332〜1339年) | 改革に意欲を見せるも、権勢家の反発で大きな効果が得られなかった | 『王は愛する』 |
28 | 忠恵王(チュンへワン) | 1315〜1344年 | 1330〜1332年 (復位1339〜1344年) | 元に翻弄された末に哀れな末期を迎えた | 『奇皇后ーふたつの愛 涙の誓いー』 |
29 | 忠穆王(チュンモクワン) | 1337〜1348年 | 1344〜1348年 | 元の人質から8歳で即位した短命の王 | 『辛旽シンドン〜高麗中興の功臣〜』 |
30 | 忠定王(チュンジョンワン) | 1338〜1352年 | 1349〜1351年 | 運命に翻弄されて暗殺された悲劇の幼君 | 『辛旽シンドン〜高麗中興の功臣〜』 |
31 | 恭愍王(コンミンワン) | 1330〜1374年 | 1351〜1374年 | 元の干渉から脱し改革を推し進めるも、愛妃の死から立ち直れず挫折した | 『シンイ−信義−』『鄭道伝』『大風水』『辛旽シンドン〜高麗中興の功臣〜』『開国』 |
32 | 禑王(ウワン) | 1365〜1389年 | 1374〜1388年 | 高麗を滅亡へと導いた不遇の王 | 『六龍が飛ぶ』『鄭道伝』『大風水』 |
33 | 昌王(チャンワン) | 1380〜1389年 | 1388〜1389年 | 側近らの思惑で短い生涯を閉ざされた | 『六龍が飛ぶ』『鄭道伝』『開国』 |
34 | 恭譲王(コンヤンワン) | 1345〜1394年 | 1389〜1392年 | 期せずして王座に上がった高麗最後の王 | 『六龍が飛ぶ』『鄭道伝』 |
※1:奴婢随母法とは…身分制度を維持するために作られた法で、常民を父として生まれても、母が奴婢であった場合にはその身分を受け継ぐこと。
※2:長子相続法とは…直系卑属(直接的に親子関係でつながるタテの系統)にあたる長男が相続するという形態。
※3:千里長城とは…契丹との戦争後、北方からの侵攻に備えて作られた鴨緑江(おうりょくこう)の河口から現在の咸鏡道永興(かんきょうどうえいこう)に続く長城のこと。
【高麗王朝・前期】高麗王初代〜10代をPICK UP!!



重要人物は名刺カードとして簡単に情報をまとめているわ。気になる王や用語があったら、[詳しいプロフィールはこちらから]をクリックして飛んでみてね!
高麗王初代・太祖(テジョ)/王建(ワンゴン)
高麗王2代・恵宗(へジョン)/王武(ワンム)
高麗王3代・定宗(チョンジョン)/王尭(ワンヨ)
高麗王4代・光宗(クァンジョン)/王昭(ワンソ)
高麗王5代・景宗(キョンジョン)/王伷(ワンジュ)
4代王・光宗と大穆王后(テモクワンフ)の長男。光宗はその治世の間、豪族の大粛清を行なったが、息子にまで疑惑の目を向けたため父子関係は良くありませんでした。即位後は政治犯を釈放したり、陥れた相手を告発する報復法を制定するなどしました。しかし、その過程で有力な王位継承者だった孝成太子(ヒョソンテジャ)と元寧太子(ウォンニョンテジャ)が殺害される事件が起き、報復法は取り消されました。即位後は、元老大臣・崔承老(チェスンノ)の補佐を受けました。
高麗王6代・成宗(ソンジョン)/王治(ワンチ)
太祖の孫であり、5代王・景宗の従弟にあたります。千秋太后(チョンチュテフ)と献貞王后(ホンジョンワンフ)の兄。高麗を支配していた仏教を排除し、儒教思想に基づいた国家形成に努め、行政改革を行いました。外交面では993年の契丹による高麗第一次侵攻の際にソヒを交渉に向かわせ、和議を成立させました。妹の献貞王后が産んだ、後の顕宗(ヒョンジョン)の育ての親となります。ドラマ『千秋太后』では妹と政策をめぐり対立しています。
高麗王7代・穆宗(モクチョン)/王訟(ワンソン)
5代王・景宗の長男で、母は千秋太后。17歳で即位しましたが、摂政の座に就いた千秋太后は金致陽(キムチヤン)との間に生まれた息子を王座に就けようと目論み、穆宗の廃位と、後継者候補だった大良院君(テリョンウォングン:後の8代王・顕宗)の排除を画策しました。これに気づいた穆宗は西北面都巡検使(ソブクミョンドスンゴムサ)の康兆(カンジョ)に大良院君の護衛を命じました。しかし、康兆は金致陽らを排除したうえ、穆宗まで廃位させた後に殺害し、大良院君を擁立しました。
高麗王8代・顕宗(ヒョンジョン)/王詢(ワンスン)
王郁(ワンウク)と献貞王后の間に生まれました。7代王・穆宗の母である千秋太后と、その愛人の金致陽から何度も命を狙われましたが、武将の康兆が彼らから守り、高麗第8代王となりました。しかし、この即位は契丹に侵攻の名分を与え、即位の翌年に契丹第6代皇帝・聖宗(セイソウ)が高麗に侵攻しました。その後も侵攻は繰り返されましたが、1018年の侵攻は亀州(クィジュ)で姜邯賛(カンガムチャン)が契丹軍を撃破し、その後両国は国交を回復しました。
高麗王9代・徳宗(トクチョン)
8代王・顕宗と元成太后金氏の長男。徳宗は即位すると、罪が軽い罪人たちを解放しました。また、大臣たちとも良好な関係性を重視することで国内の政治的安定が続きました。一方で外交的には、契丹に対し橋の工事を中止し、高麗人を返さなければ、国交を断絶する、というように強硬姿勢を見せていました。徳宗の時代に、高麗の最高教育施設である国子監に試験制度が導入されました。
高麗王10代・靖宗(チョンジョン)
8代王・顕宗と元成太后金氏の次男であり、9代王・徳宗の弟です。靖宗は、在位中に奴婢随母法や長子相続法を定めました。
【高麗王朝・中期】高麗王11代〜30代をPICK UP!!



上にまとめた一覧表と被る部分もあるけど、補足している所もあるから見てみてね!特に下線を引いている箇所は要チェック!
高麗王11代・文宗(ムンジョン)
8代王・顕宗と元恵太后金氏の子として誕生しました。文宗の時代に高麗のすべての制度が整備され、社会的に非常に安定した中で文化が発展しました。
高麗王12代・順宗(スンジョン)
11代王・文宗の長男。王として即位するも即位後3ヶ月で亡くなりました。
高麗王13代・宣宗(ソンジョン)
11代王・文宗の息子。仏教と儒教の発展を土台として、外交でも主導権を握りました。
高麗王14代・献宗(ホンジョン)
13代王・宣宗の息子。11歳で即位するも、幼かったため母親である思粛太后李氏が摂政を行いました。しかし、幼い献宗の即位に宣宗の弟たちは不満を抱いていました。献宗は幼い頃から糖尿病を患っており、母親の政権基盤も脆弱だったため1095年の政変を機に宣宗の弟の鶏林公(後の粛宗)に王位を譲りました。
高麗王15代・粛宗(スクチョン)
11代王・文宗の息子。第12代順宗と第13代宣宗の弟にあたります。粛宗は強力な王権によって高麗を安定させました。
高麗王16代・睿宗(イェジョン)
15代王・粛宗の息子。高麗の北辺を脅かすようになっていたツングース系の女真を征伐し、千里長城東北地域に9城を設置しました。
高麗王17代・仁宗(インジョン)
第16代王・睿宗の妻で、仁宗の母・順徳王后李氏の父である李資謙(イジャギョム)によって擁立され即位しました。李資謙は外戚としての勢力を維持・拡大するため仁宗にとっては叔母となる三女、四女を一度に嫁がせました。また、自身の誕生日には王であるかの様に振る舞い贅沢の限りを尽くしたとされています。
高麗王18代・毅宗(ウィジョン)/王晛(ワンヒョン)
仁宗(インジョン)と恭睿王后任氏(コンイェワンフイムシ)の長男として生まれました。太子時代から王としての資質に疑問を呈されていたが、即位後も内侍(ネシ)らと遊興にふけるなど政治を顧みませんでした。文臣が優遇され、武臣が冷遇される事態に不満を募らせた武臣の鄭仲夫(チョンジュンブ)、李義方(イウィバン)たちが1170年に軍事クーデター「庚寅(キョンイン)の乱」を起こし、毅宗を廃位して王弟・明宗を擁立しました。この後100年にわたって武臣政権が続きました。
高麗王19代・明宗(ミョンジョン)/王晧(ワンホ)
1170年の武臣クーデター「庚寅の乱」で兄の毅宗が廃位された後、鄭仲夫によって擁立されました。しかし、実権は鄭仲夫に握られ、その後も武臣政権の指導者たちに牛耳られました。1196年、崔忠献(チェチュンホン)が李義旼を排除して実権を握ると、翌年に明宗は廃位され、弟の神宗が王座に就きました。明宗は昌楽宮(チャンナックン)に幽閉され、その5年後に亡くなりました。最後まで武臣らぼ暴走は止められませんでした。
高麗王20代・神宗(シンジョン)
第17代王・仁宗の第5子。第34代で最後の王である恭譲王は、神宗の次男の襄陽公・王恕(ワンソ)の6代あとの子孫にあたります。
高麗王21代・熙宗(ヒジョン)/王韺(ワンヨン)
20代王・神宗の長男として生まれました。この当時、政権は崔忠献の天下でした。1211年、ヒジョンは内侍のワンジュンミョンとともに、政権を奪い返そうと画策しましたが失敗し、廃位された上に追放されてしまいました。1219年、開京(ケギョン:現在の開城)に迎えられ、崔忠献の息子・ジョンに娘の徳昌宮主(トクチャングンジュ)を嫁がせるが1227年に謀反の罪で再度追放され、その10年後に亡くなりました。
高麗王22代・康宗(カンジョン)
19代王・明宗と光靖太后の長男。1197年に父の明宗が崔忠献によって廃位されたが、14年後に従弟である21代王・熙宗が崔忠献に廃位されたことで王位に就きました。
高麗王23代・高宗(コジョン)/王皞(ワンチョル)
この時代、高麗は6度にわたってモンゴル(後の元)の侵攻に遭いました。第一次侵攻は1231年で、崔氏は翌年に開城(ケギョン)から江華島(カンファド)に遷都しました。これによって、首都だけは守られましたが、その他の高麗全土は荒廃し大きな犠牲を出しました。この時、符仁寺(プインサ)所蔵の初彫大蔵経(=仏教の経典)が焼失してしまいます。1236年、高宗はモンゴル撃退を仏に祈るため、16年の歳月をかけて再度大蔵経を制作しました。
高麗王24代・元宗(ウォンジョン)・忠敬王(チュンキョンワン)/王禃(ワンシク)
太子時代、人質としてモンゴルに入朝し、高麗からモンゴル軍を撤退させました。1259年に父王の高宗が亡くなったため、高麗に帰国して即位しました。ところが反モンゴル派は強硬姿勢を崩さずに、元宗廃位を画策しました。元宗はモンゴル軍の支援によってこの動きを封じ、1270年に開京遷都を宣言しました。対モンゴルの主力軍だった三別抄(サムビョルチョ)はこの決定に激しく抵抗しましたが、最終的には高麗・モンゴル連合によって鎮圧されました。
高麗王25代・忠烈王(チュンニョルワン)/王昛(ワンゴ)
元宗の長男。1260年に世子に冊封されました。元の干渉下に置かれた当時、国王の廟号は「宗」から「忠〜王」に、「太子」も「世子」に格下げされ、王妃も元から迎えることになりました。忠烈王は1274年、クビライの皇女・元成公主(ウォンソンコンジュ)との婚姻から3ヶ月後に即位しました。その後は元の日本遠征に参加するなど親元政策を取り続け、高麗国内は疲弊の一途をたどりました。
高麗王26代・忠宣王(チュンソンワン)/王璋(ワンジャン)
高麗王27代・忠粛王(チュンスクワン)
父であり、26代王・忠宣王の指示に従って元の宮廷で育てられました。実の兄が父と不和で、殺害されたことを機に後継者となりました。在位初期には土地兼併と高利貸しを規制したり、元に送る貢女の数を減らすなど改革に意欲を見せましたが、権勢家の反発で大きな効果は得られませんでした。妻の死や元での生活が長くなり政治に関する興味は徐々に喪失し、晩年は狩りや飲酒に明け暮れました。
高麗王28代・忠恵王(チュンへワン)/王禎(ワンジョン)
1330年、父・忠粛王(チュンスクワン)が元に廃位されたことで即位しましたが、2年後に忠粛王が復位し、忠恵王は再び元に戻されました。1339年に忠粛王の死で復位しました。しかし、手当たり次第に女性を襲うなどの乱行に激怒した元が島流しに処し、配流地に向かう途中で亡くなりました。時代設定から『奇皇后ーふたつの愛 涙の誓いー』に登場する架空の王、ワン・ユのモデルと考えられています。
高麗王29代・忠穆王(チュンモクワン)/王昕(ワンフン)
忠恵王の嫡男で、母は元の皇族出身の徳寧公主(トンニョンコンジュ)。人質として元で暮らしていましたが、1344年に忠恵王が亡くなり、わずか8歳で即位しました。4年間の在位期間中は母の徳寧公主が摂政として幼い王を補佐し、忠恵王時代の悪政を是正しようと努めました。庶民が権勢家たちに奪われた土地を返したり、飢饉が起こった時には貧民救済にも尽力しました。忠烈王や忠宣王の実録編纂(へんさん)にも力を注ぎましたが1348年、病の悪化によって亡くなりました。
高麗王30代・忠定王(チュンジョンワン)/王㫝(ワンジョ)
忠恵王の庶子で、忠穆王の死去に伴い1349年に10歳で即位しました。即位初期には生母である禧妃尹氏(ヒビユンシ)と、忠穆王の母で元の皇族である徳寧公主の間で摂政をめぐって対立が生じましたが、引き続き徳寧公主が摂政の座に就きました。1350年、倭寇の襲撃を受け、幼君に不安を抱いた朝廷は1351年、元に忠定王の廃位を願い出ました。こうして忠定王は江華島に流された後、殺害されました。まだ14歳でしたが1男1女がいたとされています。
【高麗王朝・後期】高麗王31代〜34代をPICK UP!!



いよいよ高麗王朝も後期に突入!
高麗王31代・恭愍王(コンミンワン)/王顓(ワンジョン)
高麗王32代・禑王(ウワン)/王禑(ワンウ)
恭愍王と侍婢・般若(パニャ)との間に生まれ、順静王后韓氏(スンジョンワンフハンシ)の手で育てられました。1374年、恭愍王の暗殺を受け、李仁任(イイニム)に推されて即位しました。当初は祖母の明徳太后(ミョンドクテフ)、その死後は李仁任が摂政に就くが、李仁任の専横は目に余り、ついに崔瑩(チェヨン)、李成桂(イソンゲ)らによって処刑されました。しかし、禑王もまた、遼東征伐をめぐって対立した李成桂のクーデターによって廃位されたあとに殺害されました。
高麗王33代・昌王(チャンワン)/王昌(ワンチャン)
1388年に李成桂によって王位に就けられました。即位後は李成桂が摂政にあたりましたが、昌王も幼いながらに政事に関わろうと努力しました。しかし、李成桂が崔瑩処刑を強く望んだ時、これを承認する過程で昌王が禑王復位計画に加担したことが発覚しました。同時に、李成桂と鄭道伝は禑王を辛旽(シンドン)と般若(パニャ)の子と決めつけ、王位継承者ではないという理由で昌王を廃位させ、禑王と一緒に処刑してしまいました。昌王はわずか9年という短い生涯を終えました。
高麗王34代・恭譲王(コンヤンワン)/王瑤(ワンヨ)
第20代・神宗の6代孫、定原府院君(チョンウォンブウォングン)を父に持ち、母の国大妃王氏(ククテビワンシ)は忠烈王の孫・延徳府院大君(ヨンドクプウォンテグン)の娘でした。親戚関係にある李成桂に担ぎ出される形で即位しました。当時、鄭道伝ら急進派と鄭夢周(チョンモンジュ)ら穏健派が対立を強めていました。穏健派とともに歩んでいた恭譲王は、鄭夢周が李芳遠(イバンウォン)に殺害されると急速に孤立し、1392年、李成桂に譲位させられ、その2年後に謀反の疑いで処刑されてしまいました。