高句麗歴代王28人を総まとめ!系図やドラマも完全網羅!

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この記事では、高句麗王朝歴代28人の王たちを初代から順番に解説しています。

・朝鮮、高麗と来たら次は高句麗でしょ!
・高句麗を描いたドラマが知りたい!
・時代劇に出てきた話や王様が、史実では実際どうだったのか気になる!

韓国時代劇と言えば、朝鮮時代を舞台にしたものが圧倒的に多いですが、中には高麗や高句麗をはじめとする三国時代を描いた作品もあります。

「高麗〜朝鮮の時代はもう見尽くした!」というマニアや、
「たまたま見たのが高句麗時代のドラマだった!」という人も必見!

この記事を見れば、”あなたの気になる”がきっと解決できるでしょう。

なつき

それでは早速見ていきましょう!

目次

【高句麗王朝】歴代28人の王たちを総まとめ!一目でわかる系図と一覧表

なつき

まずは、高句麗王朝歴代王の系図から紹介していくわね!

高句麗王系図
無断転載禁止
なつき

以下、歴代28人の王たちの在位期間や略歴、登場する主な作品について一覧表で紹介していくわね!

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名前生没年在位期間略歴主な登場作品
1東明聖王(トンミョンソンワン)紀元前58〜紀元前19年紀元前37〜紀元前19年卵から生まれたという伝説の英雄にして高句麗の初代王・チュモン『朱蒙(チュモン)』ソン・イルグク、『百済の王 クンチョゴワン(近肖古王)』イ・ドクファ
2流璃明王(ユリミョンワン)紀元前38〜18年紀元前19〜18年父を探し出し2代高句麗王となる『風の国』チョン・ジニョン、『百済の王 クンチョゴワン(近肖古王)』パク・チョンウ
3大武神王(テムシンワン)4〜44年18〜44年10歳で敵軍を撃退した高句麗の武神『風の国』ソン・イルグク、『幻の王女 チャミョンゴ』ムン・ソングク
4閔中王(ミンジュンワン)生年不詳〜48年44〜48年
5慕本王(モボンワン)30〜53年48〜53年高句麗の暴君
6太祖大王(テジョデワン)47〜165年53〜146年119歳まで生きた大御長寿王
7次大王(チャデワン)71〜165年146〜165年王位に就くために兄である先王を狙った弟
8新大王(シンデワン)89〜179年165〜179年
9故国川王(コグクチョンワン)生年不詳〜197年179〜197年
10山上王(サンサンワン)生年不詳〜227年197〜227年
11東川王(トンチョンワン)209〜248年227〜248年
12中川王(チュンチョンワン)224〜270年248〜270年
13西川王(ソチョンワン)生年不詳〜292年270〜292年
14烽上王(ポンサンワン)生年不詳〜300年292〜300年
15美川王(ミチョンワン)生年不詳〜331年300〜331年
16故国原王(コググォンワン)生年不詳〜371年331〜371年燕に圧倒され百済に敗れ流れ矢に当たり絶命『百済の王 クンチョゴワン(近肖古王)』イ・ジョンウォン
17小獣林王(ソスリムワン)生年不詳〜384年371〜384年
18故国壌王(コグギャンワン)生年不詳〜391年384〜391年
19広開土王(クァンゲトワン)374〜412年391〜412年高句麗最大の領土を築いた英雄王『太王四神記』ペ・ヨンジュン、『広開土太王』イ・テゴン
20長寿王(チャンスワン)394〜491年413〜491年高句麗の全盛期を作り上げた王
21文咨明王(ムンジャミョンワン)生年不詳〜519年492〜519年
22安蔵王(アンジャンワン)498〜531年519〜531年南北朝との二面外交で百済を威圧した王『帝王の娘スベクヒャン』カン・シンチョル
23安原王(アヌォンワン)501〜545年531〜545年
24陽原王(ヤンウォンワン)生年不詳〜559年
545〜559年
25平原王(ピョンウォンワン)生年不詳〜590年559〜590年
26嬰陽王(ヨンヤンワン)生年不詳〜618年590〜618年隋の脅威に南進し、倭国の仏教普及を推進『淵蓋蘇文 ヨン・ゲソムン』イ・ヒョジョン
27栄留王(ヨンニュワン)生年不詳〜642年618〜642年唐への弱腰外交からクーデターを誘発『淵蓋蘇文 ヨン・ゲソムン』チェ・ジョンファン、『剣と花』キム・ヨンチョル
28宝蔵王(ポジャンワン)生年不詳〜682年642〜668年傀儡に甘んじ配流となった高句麗最後の王『淵蓋蘇文 ヨン・ゲソムン』イ・ペグク、『剣と花』オン・ジュワン、『大王の夢』ソンミン

高句麗歴代王28人を総まとめ

高句麗初代王・東明聖王(トンミョンソンワン)/朱蒙(チュモン)

高句麗2代王・流璃明王(ユリミョンワン)

本名は高類利(コ・ユリ)。高朱蒙が扶余(プヨ)にいた頃に、礼氏(イェシ)との間に授かった子です。父を知らずに育ちますが、ある日、朱蒙が残した剣の欠片を、七角形の石の上方の松の根本から発見します。高句麗に赴き、朱蒙の欠片と合わせたところ1本の剣となったため太子として認められました。即位後は、鮮卑(せんび)を降し、扶余の侵略を撃退して領土を拡大します。卒本(チョルボン)から国内城(現在の中国吉林省集安市)に遷都して尉那巖城(ウィナアムソン)を築きました。

高句麗3代王・大武神王(テムシンワン)

流璃明王の第3子で本名は高無恤(コ・ムヒュル)。扶余の侵攻時、わずか10歳の無恤が、奇策を用いて敵軍を撃退しました。この功績により11歳で太子に封じられ軍総司令となります。その後、15歳で高句麗第3代王に即位しました。19歳の時に扶余に侵攻して帯素王(テソワン)の首を取り、漢の出先機関であった楽浪郡(ナンナングン)を滅ぼすなど戦功を重ねたことから「戦いの神」と崇められました。中国側の『三国志』では、朝貢し侯から王に叙されています。

高句麗4代王・閔中王(ミンジュンワン)

本名は高解色朱(コ・ヘセクジュ)。先王が死去したとき、太子(大武神王の息子で後の5代王・慕本王)が幼少だったため国人が推挙して王になりました。即位後は、大赦を行なったほか、国内の東部で洪水が起こった際には飢えた民のために穀倉を開いて施しを行いました。

大赦(たいしゃ)とは・・・恩赦の一種で、ある範囲の罪に対し刑を軽くしたり、許したりすること。

高句麗5代王・慕本王(モボンワン)

本名は高解憂(コ・ヘウ)。『三国史記』では先々代の大武神王の息子、『三国遺事』では先代の閔中王の弟と記されています。国内の飢えた民に施しを行うこともありましたが、人の上に座ったり人を枕にするなどして揺れ動いたものは容赦なく手にかけ、諫言する臣は弓で射るなど、暴虐の王と化しました。そのために、いつか王にやられると恐れた側近によって53年11月に亡き者にされました。

高句麗6代王・太祖大王(テジョデワン)

本名は高宮(コ・クン)。高句麗第2代王・瑠璃明王の曽孫に当たります。宮は生まれながらに目を開き、物を見ることができたと伝えられています。先王の慕本王が亡くなった時、太子の翊(ヨク・慕本王の息子)の素行が悪かったため、国人が宮を迎えて王位につけました。このとき、宮はまだ7歳だったため、王の母がしばらく摂政をしました。太祖大王の治世が93年と長すぎることもあって、慕本王から太祖大王までの間に数代の欠落があったとする説もあります。また、『三国遺事』には、太祖大王は119歳のときに弟王(次大王)とともに、新王(新大王)によって手にかけられたとの説があります。

高句麗7代王・次大王(チャデワン)

本名は高遂成(コ・スソン)。132年7月頃から遂成は取り巻きの者たちとともに王位を狙う動きを見せ始め、146年7月には太祖大王を暗殺しようと策略しました。しかし、太祖大王はこれまでの遂成の功績を認め、争いを避ける事を理由に譲位、76歳にして高句麗第7代王として即位しました。即位後は、取り巻きの者を高位に引き上げ、自分を害そうとした者たちを処刑します。兄である高句麗6代王・太祖大王が手にかけられたことで、自分も狙われるのでは、と恐れおののき自ら首をつってこの世を去りました。『三国遺事』には、太祖大王とともに、新王(新大王)によって手にかけられたとの説もあります。

高句麗8代王・新大王(シンデワン)

本名は高伯固(コ・ペクコ)。第6代王・太祖大王の末弟で、先王の死を機に77歳で王位に就きました。即位2年目の正月に大赦を行い、第7代王・次大王の太子である鄒安が出頭してきたのでこれを許し、狗山瀬(くざんらい)・婁豆谷(るとうこく)の二地を与えて譲国君に封じるなど反対勢力への懐柔を試みました。在位15年、91歳で亡くなります。

高句麗9代王・故国川王(コグクチョンワン)

本名は高男武(コ・ナンム)、8代王・新大王の次男。179年に新大王が死去したときに、長男の抜奇が政権内や人民の評判が悪かったため、男武が擁立されて王位に就きました。即位後は、平民出身の者を国相に据えることで貴族勢力を抑制し王権の更なる強化を実施しました。また、賑貸法を制定し、農村の振興を図り、農業の発展に尽力しました。息子であった王子は戦死し、後に故国川王の息子らが王座をめぐって争います。

高句麗10代王・山上王(サンサンワン)

本名は高延優(コ・ヨヌ)。9代王・故国川王が死去したときに王子がいなかったため、もう一人の兄・発岐と争って勝利し、王座に就きました。208年11月、山上王は祭事に用いる豚を求めて酒桶村へ行き着いたところ、そこで20歳ほどの女性に出会って一夜を共にします。このことを知った王妃は憤慨し、この女性を抹消することを試みますが失敗に終わりました。まもなくこの女性は男子を産み、山上王は側室としてこの女性を迎えました。この時生まれた男子が後の11代王・東川王です。

高句麗11代王・東川王(トンチョンワン)

本名は高憂位居(コ・ウウィゴ)。即位後、高句麗は呉と同盟を結びます。しかし、東川王は236年7月には呉の使者を斬り捨ててその首を魏に送り、その後は魏の改元を祝う使者を遣わすなど、魏に傾いた外交をしました。その後、魏とも対立を深め国都である丸都城を陥落されています。中国以外との交流では、日本海地方の人が献じた美女を後宮にいれたり、新羅側から来た使者を受け入れ新羅と和を結んだりしました。

高句麗12代王・中川王(チュンチョンワン)

本名は高然弗(コ・ヨンブル)。即位年の11月に、弟の預物・奢句らが反乱を起こそうとしたため、この者たちを滅ぼしました。中川王にはすでに王妃がいましたが、王妃とは違う夫人を愛し側室に入れようとしたため、王妃と夫人は王からの寵愛をめぐって争いました。その最中、夫人が嘘をついたことに腹を立てた王は、夫人を革袋に入れて西海に棄ててしまいます。

高句麗13代王・西川王(ソチョンワン)

本名は高薬盧(コ・ヤクロ)。先代の中川王の次男です。弟の逸友・素勃らが謀反を企てたことを知った王は、彼らを国相にすると偽って宮中に招き入れ手にかけました。

高句麗14代王・烽上王(ポンサンワン)

本名は高相夫(コ・サンブ)。度々の鮮卑(せんぴ:中国北部に存在した遊牧騎馬民族)の侵入に対しては能力のある人材を登用して防衛に成功しますが、即位直後から先王の時代に活躍した人物の人望を恐れて抹消したり、自らの弟が謀反を起こそうとしていると決めつけて亡き者にし、さらにはその子まで探し求めて抹消しようとしたりと暴虐的な性格の持ち主でした。天災続きで飢えている民を放置して贅沢を尽くす烽上王に痺れを切らした臣下らによって廃されました。死を免れないと悟った烽上王は自ら生涯を終えます。2人の王子もまた、自らこの世を去りました。

高句麗15代王・美川王(ミチョンワン)

本名は高乙弗(コ・ウルブル)。13代・西川王の孫で、先代の烽上王の甥に当たります。父が謀反を企てているとして先王に抹消されたことで、自らも消されるのではと恐れ王宮を離れていました。王の孫であることを隠し下働きをする中で、鞭打ちの刑などに処され昔の面影はすっかり消え痩せ衰えていきました。誰が見ても王の孫だとは思えなくなっていたころ、暴政によって廃位しようとしていた烽上王に代わる王として、国相らが探し出し15代王として即位しました。

高句麗16代王・故国原王(コググォンワン)

高句麗第16代王で、19代広開土王の祖父に当たります。西の燕(えん)に備えて防備を固めるも、342年に燕軍4万の侵攻を受けて大敗しました。母や王妃を拉致され、父の15代美川王の墓を暴かれ遺骸を持ち去られるなど辱めを受けます。そんな中、自身は高句麗が燕の朝貢国となることで延命しました。南の百済攻略によって復活を目指すも、逆に百済の近肖古王による侵攻を招き、371年の戦いで流れ矢に当たって戦死しました。

高句麗17代王・小獣林王(ソスリムワン)

本名は高丘夫(コ・クブ)。先代の故国原王の子で、故国原王が戦死したため王位に就きました。軍事力の低下していた時代に王となった小獣林王はひたすらに国力の回復に努めました。375年には、朝鮮での仏法の始まりとされる寺を創建します。また、官僚を育成する機関である太学(たいがく)を建てて儒教による教育を推進しました。前秦へは377年にも朝貢をするなど、中国との良好な関係を保とうとしました

高句麗18代王・故国壌王(コグギャンワン)

本名は高伊連(コ・イリョン)。先代の小獣林王の弟であり、父は第16代の故国原王です。先王があととりのいないまま死去したため、王位に就きました。後燕の支配下の遼東に攻め入り、一度は遼東郡・玄菟郡を陥れるも、半年と経たずに奪い返されてしまいます。半島内では百済に攻め入られ、390年には都押城(平壌市中和郡)を破られるなど、劣勢に陥ります。一方で新羅とは、人質として送られてきた王族を受け入れるなど良好な関係を保ちました。また、教書を出して仏教信仰の拡大を後押ししています。

高句麗19代王・広開土王(クァンゲトワン)

高句麗20代王・長寿王(チャンスワン)

本名は高巨連(コ・コリョン)。先代・広開土王の長男です。427年に首都を平壌に移し、新羅や百済、さらに百済を援軍として助ける日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大します。また、南北朝どちらに対しても朝貢を重ねて良好な関係を構築し、高句麗の全盛期を築き上げました。491年に、在位79年、98歳という長寿をもって没しました。

高句麗21代王・文咨明王(ムンジャミョンワン)

本名は高羅雲(コ・ラウン)。先王の長寿王の孫に当たります。父は長寿王の息子で王子の助多でしたが、早くに亡くなっていたため王の孫で、王子の息子の羅雲が21代王・文咨明王として即位しました。先代の長寿王に引き続き、中国に対しては南北朝両面との友好関係を継続しました。広開土王の時代から拡大してきた領地は、文咨明王代になると百済・新羅が同盟を組み対抗してきたため、これら二国に対して大きな戦果をあげることができませんでした。

高句麗22代王・安蔵王(アンジャンワン)

高句麗第22代王。中国の『魏書』や『梁書』では単に安と記されていますが、本名は高興安(コ・フンアン)です。先王の文咨明王(ムンジャミョンワン:広開土王の孫)の子で519年に即位しました。当時、南北朝時代の中国に対して二面外交を展開し、どちらからも高句麗王と認められ百済に侵攻します。523年の百済侵攻では自ら兵馬を率い、2000人余りの首級を挙げたと言われ、百済を圧倒しました。『帝王の娘スベクヒャン』では、百済最大の脅威として描かれています。

高句麗23代王・安原王(アヌォンワン)

本名は高宝延(コ・ボヨン)。先代の安蔵王の弟で、父は第21代王・文咨明王です。第20代王・長寿王以降伝統となっているように、中国の南北朝両面に対して朝貢を続けました。

高句麗24代王・陽原王(ヤンウォンワン)

本名は高平成(コ・ピョンソン)。先代の安原王の長男です。従来の南北朝両面への通好の方針は取りやめられ、北朝の東魏・北斉のみへの朝貢を続け、南朝との交流は廃絶しました。半島内三国の間では戦乱が多く、新羅に領土を奪われることが多々ありました。かつての高句麗の外征の勢いは失われ、代わって新羅が勢力を増します。

高句麗25代王・平原王(ピョンウォンワン)

本名は高陽成(コ・ヤンソン)。先代の陽原王の長男です。百済・新羅の同盟(羅済同盟)の崩れにより、三国がそれぞれ対立体勢となります。また、三国が揃って中国との独自外交を持ったことにより、それ以前の高句麗の優位性がなくなり、中国の動向を注意深く見守って再び南北朝両面への外交を続けることになりました。

高句麗26代王・嬰陽王(ヨンヤンワン)

高句麗第26代王で本名は高元(コ・ウォン)。南北朝を制して中華を統一した隋に朝貢するも、隋に無断で遼西を攻撃したことを咎められ、隋軍30万の侵攻を受けます。一度は使者を送って臣従を誓いますが、再度侵攻を受けると将軍・乙支文徳(ウルチムンドク)の活躍によって隋軍を撃退しました。度重なる遠征により隋は国力を大きく衰退させ、その隙に高句麗は百済や新羅に侵攻し多数の捕虜を得ることに成功します。さらに、日本にも聖徳太子の師となる仏僧・慧慈(ヘジャ)を派遣し、日本における仏教振興に貢献しました。

高句麗27代王・栄留王(ヨンニュワン)

高句麗第26代・嬰陽王の弟で、本名の建武(コンム)から建武王(コンムワン)とも記されています。即位すると隋の侵攻を退け、代わった唐に朝貢しました。一方で千里長城を築き大陸からの侵攻に備えました。しかし、捕虜の返還や世子を人質に出すなどの臣従路線は、淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)ら軍部の反発を招き、642年にクーデターが発生、栄留王は100名以上の家臣とともに殺害されてしまします。以降、高句麗は唐と対立することになりました。

高句麗28代王・宝蔵王(ポジャンワン)

高句麗第28代王。先王の栄留王の甥(弟の子)に当たりますが、淵蓋蘇文のクーデターにより新王に封じられました。実権は淵蓋蘇文に握られ、百済と同盟師道教を推進しました。淵蓋蘇文が亡くなると国内は混乱し、その隙をついた唐・新羅連合軍の侵攻により高句麗は滅亡し、最後の王となったのです。宝蔵王は長安に連行されましたが、王に罪はないとして赦免されます。しかし、遼東に戻り高句麗再興を計画したことが発覚して配流に処され、配流先の四川省で亡くなりました。

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