・ドラマ『麗<レイ>』に出ていた光宗について詳しく知りたい!
・光宗の治世はどのようなものだったの?

こんな声に応えていくよ!
父・太祖王建から受け継いだ高麗を堅固な国家へと導くため、改革を推し進めた不屈の王・光宗。
ドラマでもカリスマ的存在として描かれることの多い、光宗とは一体どのような人物だったのでしょうか。
そこで今回は「【高麗王朝4代】光宗(ワンソ)|改革を推し進めた不屈の王」と題しご紹介していきます。
光宗(クァンジョン)/王昭(ワンソ)のプロフィール
本名 | 王昭(ワンソ) |
生没年 | 925〜975年 |
在位期間 | 949〜975年 |
父 | 初代王・太祖 |
母 | 神明順成王后 劉氏(シンミョンスンソンワンフ ユシ) |
実兄 | 第3代王・定宗(チョンジョン) |
略年表
925年 | 太祖王建と神明順成王后劉氏との間に生まれる。 |
945年 | 異母兄の高麗2代王・恵宗の急死に伴い、同腹の兄・王尭が3代王・定宗として即位する。 |
949年 | 定宗の死去に伴い、4代王として即位する。 |
956年 | 奴婢按検法を実施する。 |
958年 | 科挙制度を実施する。 |
975年 | 51歳で死去する。 |
史実では
太祖の四男。母は豪族の劉兢逹(ユグンダル)の娘で、神明順成王后劉氏。劉氏にとっては泰(テ)、尭(ヨ・定宗)に次ぐ三男となる。
王位継承順位は低かったが、太祖の長男で第2代王・恵宗が即位から2年後にこの世を去り、3代の定宗もまた在位3年半で病死しため、幼い頃より王の資質を認められていた昭(ソ)が高麗第4代王・光宗として即位する。
王室と姻戚関係にある豪族たちによる後継者争いを見て育ち、王となった兄たちが重臣たちに実権を握られる様を目の当たりにしたため、光宗は王権強化のための改革を模索する。
956年には奴婢按検法を実施し、豪族が経済的、軍事的基盤として不当に所有していた奴婢を解放。これにより豪族の力は次第に弱まっていく。さらに958年には科挙制度を取り入れ、優秀な人材の確保に注力した。引用:韓国時代劇で学ぶ人物大辞典
こうした改革は豪族たちの激しい反発を招いたが、光宗は改革の手を緩めず、反対派を次々に粛清した。こうした容赦のない光宗の改革は後世に批判の的にもなったが、国家の基盤をつくった名君としての評価も高い。
光宗(クァンジョン)の豆知識



光宗の王妃・大穆王后皇甫氏(テモクワンフファンボシ)は太祖と神静王后皇甫氏の娘よ。つまり光宗の異母妹に当たるの。



母親は違うといえど、妹と結婚したってこと?!



その通りよ。ちなみに側室の慶和宮夫人林氏(キョンファグンプインイムシ)は光宗の兄で2代王・恵宗の娘だから伯父と姪の関係に当たるの。



親戚ばっかと結婚してるじゃん!



そう。この時代は近親婚も多かったの。太祖は豪族たちとの姻戚によって勢力拡大を図ったから、29人の妻との間に息子だけでも25人いたそうよ。



息子だけで25人…。娘も入れたらきっと自分の子供だけでひとクラスできるね。



これだけ息子がいたり、近親婚が多いと王になり得る資格を持っている人も増えるわけだから、権力争いも起きるわよね。



本当だね。
光宗(クァンジョン)/王昭(ワンソ)の登場する主な作品



光宗はドラマでもカリスマとして描かれることが多いのよ!
作品名(ドラマ) | 役名 |
光宗大王〜帝国の朝〜(02) | キム・サンジュン |
千秋太后(09) | チョン・スンウ |
輝くか、狂うか(15) | チャン・ヒョク |
麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜(16) | イ・ジュンギ |



『光宗大王ー帝国の朝ー』ではキム・サンジュンの威厳あふれる堂々とした演技が印象的なんだけど、改革のために反対派を次々に粛清する鬼気迫る姿にはゾッとさせられたわ。



『輝くか、狂うか』の光宗は幼い日に宮廷から追放されて、王位に何の興味もなかったはずが宮廷にうごめく陰謀の存在に気付いて、次第に不穏な後継者争いに巻き込まれていくの。



『麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』では冷酷にならざるを得なかった光宗の屈折した思いを、不遇な幼少時代のトラウマのせいという新解釈で描いているわ。



『麗<レイ>』ではイ・ジュンギが演じていたよね!あの切ない眼差しが印象的だったな〜。ドラマによって歴史の解釈や着色の仕方が違って面白いね!