・ヤンニョンテグンって色々なドラマに出てくるよね!詳しく知りたいな
・なぜ問題児と呼ばれているの?
・どんな生涯を送ったの?

こんな疑問に答えていくよ!
3代王・太宗の長男として誕生し、次期王として期待して育てられたヤンニョンテグン。
そんな周囲の期待とは裏腹に、自由奔放な問題児へと成長した彼はついに世子の資格を剥奪されてしまう…。
王になることよりも、自由に好きなことをしながら生きることを選んだヤンニョンテグンの生涯とは一体どのようなものだったのでしょうか。
そこで今回は、「ヤンニョンテグン(譲寧大君)自由奔放でスキャンダル多数の問題児」と題しご紹介していきます。
ヤンニョンテグン(譲寧大君)のプロフィール
名前/本名 | 譲寧大君(ヤンニョンテグン)/李褆(イ・ジェ) |
生没年 | 1394〜1462年 |
父 | 3代王・太宗 |
弟 | 4代王・世宗 |
略年表
1394年 | 3代王・太宗と元敬王后閔氏の間に生まれる。 |
1404年 | 11歳で世子に冊封される。 |
1407年 | 金漢老(キム・ハンノ)の娘と結婚する。 |
1417年 | 重臣の側女の於里(オリ)を妊娠させた事実が発覚する。 |
1418年 | 25歳で廃世子となり、弟の忠寧大君(後の世宗)が世子になる。 |
1462年 | 69歳で亡くなる。 |
分かりやすく解説



譲寧大君は、3代王・太宗の長男として誕生したわ。正統な王位継承を誰よりも望む太宗の期待を背負って成長したんだけど、幼い頃から自由奔放で学問に興味を示さず、狩りや弓矢を好んでいたんだって。



まあ、子どものうちはね…



はじめは太宗もそんな譲寧大君を頼もしく思っていたんだけど、成長するにつれて学問を怠ったり、妓生を宮殿に引き入れて遊びほうけたりと問題が表面化してきたの。



妓生を宮殿にまで引き入れちゃったんだね〜。確かに世子としての自覚に欠けているかもね。



太宗は譲寧大君の更生を試みたんだけど効果がなくて、ついに1418年に世子を廃位されたわ。そして弟の忠寧大君(後の世宗)が世子に冊封されたの。



これはもう、自業自得だね。



廃世子になったあとも態度は変わらずに、しばしば弾劾されたそうよ。でも世宗の配慮によって罰せられることなく風流を楽しみながら余生を送ったの。



人生を謳歌したんだね。



ちなみに、世祖が端宗を排除して王位に就く時には、王族の長老として先頭に立って支持したそうよ。譲寧大君の数々の奇行については、「優秀な弟に王位を譲るためにわざとやったのでは?」という説もあったんだけど、最近では本当に問題人物だったという見方の方が優勢みたい。
ヤンニョンテグン(譲寧大君)が登場する作品一覧
作品名 | 役者名 |
韓明澮 ~朝鮮王朝を導いた天才策士~(94) | パク・ピョンホ |
龍の涙(96〜98) | イ・ミヌ |
王と妃(98〜00) | シン・グ |
大王世宗(08) | パク・サンミン |
インス大妃(11) | パク・ウン |
不滅の恋人(18) | ソン・ビョンホ |



『不滅の恋人』では譲寧大君をモデルにしたヤンアン大君というキャラクターで登場するわ。



あの人か!



『王と妃』では自分の代わりに王位に就いた世宗や文宗、端宗を恨んで、甥の世祖の即位を後押しする厄介な長老として描かれているわ。



そうなんだ。実際に譲寧大君が王様になりたかったかどうかは謎だけど、弟の世宗が王様になったことでハングルが生まれたり、朝鮮の黄金期って呼ばれるほど後世に偉業を残せたわけだから結果として良かったのかな。



そうね。譲寧大君が王様になっていたらどうなっていたのかしらね。



タラレバになるけど、歴史からこういうことを考えるのって面白いよね!