・鄭夢周はなぜ次第に李成桂や鄭道伝と対立するようになったの?
・どんな最期を迎えたの?
・彼が登場する作品について知りたい!
こんな声に答えていくよ!
李成桂(イ・ソンゲ)と共に、高麗王朝の改革を目指して尽力するも最期は儚く散った鄭夢周。
そんな彼の生涯とは一体どのようなものだったのでしょうか。
そこで今回は「鄭夢周(チョン・モンジュ) |高麗王朝への忠誠心を貫いて散った大学者」と題し、ご紹介していきます。
鄭夢周(チョン・モンジュ)のプロフィール
名前 | 鄭夢周(チョン・モンジュ)/圃隠(ポウン) |
生没年 | 1338〜1392年 |
職業 | 文臣 |
略年表
1328年 | 慶尚比道永川の裕福な両班家で生まれる。 |
1357年 | 科挙に首席合格する。 |
1363年 | 李成桂とともに女真族討伐に従軍する。 |
1377年 | 日本へ赴き、室町幕府の九州探題・今川貞世と会談する。 |
1392年 | 李成桂に共鳴して恭譲王(コンヤンワン)擁立に貢献するが、李芳遠の刺客によって殺害される。 |
分かりやすく解説
鄭夢周は、代々官僚を輩出した裕福な両班家の生まれで、李成桂とともに女真族討伐に従軍したわ。この時、李成桂の人柄に惹かれ、彼の考えを支持するようになったそうよ。
そうだったんだ〜!
でも、辛旽(シンドン)が国政を担った時代に要職に就いていたせいで、辛旽の失脚時に“辛旽一派”との濡れ衣を着せられたの。
確か、辛旽が国政を担うようになったのは第31代王・恭愍王の時代だったよね。妃であった魯国公主が亡くなって抜け殻のようになった恭愍王は当時、信頼していた辛旽に政治を任せっきりにしたんだよね。
ええ。でも当時、中国大陸を統一した明との外交関係樹立に貢献したことで信頼を回復して、その後も日本に赴くなど外交手腕を発揮したの。1388年に李成桂がクーデターを起こすと、志を同じくした鄭夢周も恭譲王擁立に貢献したわ。
じゃあなんで、鄭夢周は李成桂の息子である李芳遠の刺客によって殺害されることになったの?
新しい王朝の建国を目指す李成桂と、あくまでも高麗王朝の立て直しを目指す鄭夢周との間に亀裂が走るようになったからよ。
そうだったんだ…。
ドラマ『六龍が飛ぶ』で鄭夢周が李芳遠にやられるシーンで交わした詩「何如歌(ハヨガ)」と「丹心歌(タンシムガ)」に2人の心情がよく表れているわ。これは、今でもよく知られる有名な詩なのよ。
鄭夢周(チョン・モンジュ)が登場する主な作品
鄭夢周の最期は、多くの作品でドラマチックに描かれているわ。
作品名 | 役者名 |
開国(83) | ソン・ジェホ |
龍の涙(96) | チョン・スンヒョン |
大風水(12〜13) | パク・ヒョンジェ |
鄭道傳<チョン・ドジョン>(14) | イム・ホ |
六龍が飛ぶ(15〜16) | キム・ウィソン |